大多喜町観光の見どころは、大多喜城の歴史、城下散策観光、ハイキング、キャンプ、紅葉狩り 日帰り入浴、養老渓谷温泉のみどころを紹介、四季の彩、各種イベントの最新情報提供致を参考にお越しをお待ちしています。


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都心から70分、横浜から75分  10万石の城下町大多喜にようこそ
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       大 多 喜 城 ・城 下 周 辺    見どころマップ

 大多喜城
    大多喜城の起源は、天正一八年(1590)本多忠勝が十万石でこの地に封ぜられて、家康の許可を得て築  城し、近世城郭として大多喜城ができあがり、本多氏三代(忠勝、忠朝、政朝)で国替えとなり、阿部氏、青山氏 稲垣氏、とかわり、元禄一六年(1703)松平正久がこの地の移封して以来九代を経て、明治四年(1871)廃藩、廃城となりました。本丸跡は、昔のまま保存されていたので、千葉県の指定史跡となっています。城内は本丸、二の丸、三の丸に分かれていて、本丸は白亜の三層の天守がたっていました。二の丸には四つ、三の丸には5つ、合計九棟の隅櫓が城壁の上に配置されていました。濠は外堀内堀空堀と三重に掘られていました。御殿は二の丸に 、武家屋敷は三の丸に設置されました。天保一三年(1842)に天守を始め城内の建造物は消失いたしました。天守は再建できませんでした。詳細は千葉県立中央博物館大多喜分館のホームページをご覧ください。 休館日 毎週月曜日 開館時間 9時から16時30分 大人200円
大手門 
 大多喜城の大手門は、いすみ鉄道の裏側にあった。大手門の前にはお堀が巡らされ、水が満々とたたえられ、幅は30メートルあって、水面にはヒシが一面に水茎の網を張っていた。門の前にはつり橋がかかっていて、いざというときには、人工的に持ちあがる仕掛けになっていた。大手門は、敵に対する第一の要塞的な役割を果たしているから、門の中でも最も大きく、二層の楼門で、門には鉄製のいかめしい大扉が付けられていたのである。慶長14年(1609)に訪れた「ドン・ロドリゴ」の記録によれば、火縄銃をもった武士が、100人も警護にあたっていたというから、大多喜城の大手門の規模がかなり大きいことが想像されよう。
現在では当時の面影はなく八幡神社の門前に大手門址の道標があります。

大井戸
 古今東西を問わず、水の重要性は言うまでもなく、築城にあたっての第一の条件は、「水の手」にあった。大多喜城の二の丸、三の丸には、大小25の井戸があった。その中で二の丸の井戸は、周囲17メートルもあって、大多喜城の自慢でもある。天正18年(1590)本多忠勝が築城した時に掘られたもので、江戸時代名では八角の井桁を組み、そこに八本の柱があって、杉皮ぶきの東屋風の建物であった。梁には八個の滑車とつるべ桶一六が用意されて、水を汲みあげたという。水利に恵まれないこの地に、大小といえどもこんこんと湧く井戸を設けたことは、当時の築城技術の良さを物語る。

 薬医門
   大多喜城の建造物は、廃藩とともにすべて壊されてしまった。だが、この中でたった唯一薬医門が残ったことは幸いであった。 二の丸跡の大多喜高校の玄関脇に移築復元された薬医門は、大多喜城の往時の一端がしのばれる唯一の遺構である。薬医門は天保一五年以降に再建されたものと思われ、側面の破風の中央に、藩主の定紋である三つ扇を置いてある。大きさから、馬上豊な武士が通行した正面ではなく、おそらく、御殿の門であったと考えられる。この門が今に残るのも、大多喜水道工事に尽力した小高半左衛門が貰い受け、のち、旧制大多喜中学校(現高校)の校門に寄贈したからである。
渡辺家

 国の重要文化財で大多喜城の御用商人をつとめた御宅で、この建物は嘉永2年(1848)4月に建てられたものです。
格子戸、上げ障子、土ひさし付きの店構え、二階は使われていた人の部屋、店の奥は、茶の間、仏間、勝手間、座敷、奥座敷という間取りになって、奥座敷は書院造りです。
間口6.5間奥行9間当時の大商人のようすがうかがえます。

小田喜根古屋城跡  大永元年(1521)上総君津郡万里谷城主武田信興が、房州館山城主里見氏の上総夷隅の侵略に備えて、次男武田信清に命じて築城したのもです。武田信清は、天文3年(1534)になくなり、二代城主朝信で、天文13年(1544)に里見方の正木大膳亮時茂に滅ばされ、時茂が三代城主となり正木氏が際在城していました。天正15年(1590)に徳川家康の武将である本多忠勝のは入封により、時堯は房州に移りました。本多忠勝は根古屋城が近代戦に添わないので西南1000メートルの地点の要害の山に築城し、完成したので廃城となって今日に及んだものです。


蔵作の家釜屋  建てられたのは明治初期で、大多喜城下では江戸から明治大正時代とよく火災が発生がありました。そのためか土蔵造りの家が建てられまました。この地区を久保町と言いまして、土地が低く、毎年のように水害に見舞われました。久保とはくぼ地ののような地形からつけられた町名と言われています。また、城下町として賑わったといわれています。



夷隅神社

 須佐之男命を祭神とし、草創沿革については不明だが、口碑によれば、長久2年(1041)の再建、さらに天正15年(1587)正木大膳が根古屋居城のとき再建したと伝えられており、以後、歴代大多喜城主の崇敬社でした。今の社殿の棟札及び墨書銘は不明だが、高欄の宝珠の銘文により、文政12年(1829)の銘がもっとも古く、建築の様式、手法上から見ても、江戸時代末期頃の建造物と考えられます。境内には西南戦争、日清戦争をはじめとする戦争で戦死した人々の表忠碑、明治初期コレラ撲滅につからを尽くし殉職した警察官の招魂碑などがあります。明治12年(1879)八月郷社となり近郷の人々の信仰を集めました。 

商い資料館
 大多喜城の城下町として栄え、明治・大正・昭和と時の流れの中で、平成へと伝え続けられてきた大多喜商人の心意気。それを支えてきた道具の数々、また、庶民の生活を支えてきた品々、ある年代の方には懐かしさと心やすらぐ時を、若人には先人の生活の知恵と毎日の心豊かに過ごすわざを感じていただければ幸いです。展示品、昭和初期の久保桜台通りの写真、格子に囲まれた帳場、棹天神はかり、軽量枡、千両箱、小銭、長火鉢、職人の道具、暮らしの道具、 印刀、 版木など
 会館時間 9時~17時 
 休館日 12月29日~1月3日
桜谷寺
 
 寺伝によれば、天正年間、大多喜城主本多忠勝のの母が逝去の際、大嚴寺第2世安誉虎角を招き、万木村(現夷隅町)櫻谷に1寺を建立し菩提を弔ったとある。文禄4年(1595)弟子寂誉至道により現在の地に遷されたが消失し明和5年(1768)実誉円硯の代に再建された。境内にある石造地蔵菩薩立像【延命地蔵尊)は、像高160cm余り、柔和なお顔、衣の流麗な線が見事である。刻銘に「本願七兵衛・田中一左衛門・高橋次郎右衛門、万治3年2月16日」とあり像立年代も明らかで、大多喜町指定文化財である。



妙福寺
 日蓮宗で、大永2年(1522)日明上人の開祖とされ、本多氏以来の歴代城主の帰依が厚く、多くの文化財が伝わる。中でも大多喜城主本多忠朝の書状が残るが、これは妙福寺の住職が、はるばる忠朝のもとに「そうめん」一折を陣中見舞いとして届けたときの礼状である。「遠路御念入れられ・・・・・快然の至り浅からず候」とあって忠朝の人柄をほうふつされる文章である。また、大多喜城主松平正久が妙福寺に当てた文章もある。徳川家にて若君さまがご誕生にあたり、安産を祈った礼状である。ほかに、室町時代の作と思われる絹本着色の釈迦涅槃図なども伝わっていて、城下町の寺院の貫録を物語っている。

大圓寺 (大円寺
浄土宗で、大永2年(1522)正蓮社天譽存公上人の開祖で、本尊阿弥陀如来立像は、像高1m60cm、檜の寄木造り文禄年間に造像さらたもので、台座より3m余りもある見事なものである。墓地に立つ、石造 阿弥陀女来立像はは大多喜町指定文化財である。墓地内には荘司(野々宮)きくの墓がある。きくは、明治の作家「樋口一葉」の友人で、大多喜に居し、教鞭をとっていた人である。後、大多喜をななれ、大正11年、53歳で亡くなる。今、その墓石は、塀に近くひっそりと建っている。
 ※多くの資料は大円寺と表記されている。


良玄寺
 大多喜城主本多忠勝ゆかりの菩提寺で、大多喜城下の新丁にある。大多喜城を西北に望み、最も城が美しく見える景勝の地で、忠勝が菩提寺を建立するときに、意識的にこの地を選んだものと考えられる。良玄寺はその昔は良信寺といった。良信とは本多忠勝の法名である。忠勝は良信寺を創建するために下総小金の東慚寺の了学上人を呼んで、師と仰ぐ、時に文禄四年(1595)忠勝は百石を了学上人にあたえた。伊勢桑名に移ってからも忠勝は、自分の肖像画を菩提寺の了学上人に贈っている。(総南博物館報より抜粋)


忠勝・忠朝墓所

 家康に過ぎたるものは二つあるり、からのからしに本多平八。。。。。。”徳川の好敵であった信玄の軍が、さすが敵ながらあっぱれと、本多平八郎忠勝ほめたたえた歌である。彼は戦国の世にあって、並びなく剛勇として知られ徳川四天王の一人としてその名を馳せた。天正十八年北条氏が降りるや、その八月、忠勝は大多喜城十万石に封じられた。忠勝は、新しく近世大多喜城の築城にとりかかった。在職11年、伊勢桑名城に移り、慶長15年10月18日、忠勝63歳の波乱の生涯を閉じた。 分骨されて、大多喜城下の良玄寺の埋葬、大多喜城で亡くなった忠勝夫人と、大坂夏の陣で戦死した2代城主忠朝と静かに眠っている。(総南博物館報より抜粋)

朝市(六斎市)
 仏教における六斎日に当たる日に開市していたところから、こうよぼれるようになった。大多喜城下では、天正18年(1590)の忠勝入城に伴い開市された。常設の小売店舗が増加充実するにつれ、生産から販売までおこなう形から次第に市場が専門化され、商人中心へと様変わりをするようになる。そして、定期市はその意義を失うことになり、年数回の歳市へと退化してゆくのである。大多喜も、時代は不明であるが廃止され、第二次世界大戦後、夷隅郡内の町村と組市場を形成し現在に至っています。1・6が苅谷、2・7が椎木、3・8が大原、4・9が長者、5・10が大多喜で毎日市はひらかれている。
4ツ門跡
 通称、大手口まで直角に三回曲がって大多喜城大手門への入城道でした。本多忠勝の築城と、城下町の都市計画時に建てられたものです。門は真黒な太い角柱で馬上の武士が通過できる高さの冠木門で扉には大きな鋲を打った荘厳な構えで、通常はこの門を閉じて普段の通行は左側に設けられたくぐり木戸からです。4ツ門の名前は城内から4番目の門であることから名づけられたものです。4ツ門は、大多喜城への最初の門であるので、黒々として大きく、威嚴のある風格を備えていました。


 東長寺    寺伝によれば、永正1年(1514)の建立で、開基は大多喜根古屋城主武田信清、開山は大岩和尚であると言われている。以来武田、正木の歴代城主の菩提寺だあった。本多忠勝入城後は長男忠政の室熊姫が深く信仰し、その位牌処となった。熊姫は家康と築山殿との間に生まれた信康と信康の妻となった織田信長の娘との間に生まれ天正18年(1590)に大多喜城に輿入れをした。後2代将軍秀忠の長女千姫を妻とした本多忠刻は、忠政、熊姫の長男として大多喜城で誕生している。同寺には熊姫愛用の金襴袈裟をはじめ、正木時茂の墨書銘のある濁江錦浴衣、本多家愛用の紋所付御膳が伝えられている。本尊は釈迦如来挫像で、脇侍として文殊菩薩、普賢菩薩が並び釈迦三尊となっている。檜の寄木作りで漆に金箔を押し、いずれも室町末の作と推定される。
円照寺
 大多喜城主松平氏の菩提寺で、大多喜町田丁円照谷なある。暦応元年(1338)大光禅師が開いたという。松平氏の墓は、野火止めの平林寺にあるが、松平8世の位牌はここに安置されている。ここに伝わる正木大膳のなぎなたは、万木土岐氏との戦いで、49人余りを打ち殺し、血のついたまま奉納したとものという。前方に三日月の池があり、島上に弁財天が祭られている。別名(村正の池」といい、刀匠五郎正宗と弟子村正との秘話が伝えられている。


木造馬頭観世音菩薩立像
 大多喜城下紺屋町の山箇蔵山観音寺乃本尊、馬頭観世音菩薩立像は、鎌倉時代のの作で木造馬頭観音としては、県内最古である馬頭観音は、馬が牧草を喰むごとく諸種の悪心を食いつくす意味をもった仏であり、観音変化像、六観音の一つにあげられ、無量寿仏の怨怒身であり、激しい形相から明王としての性格づけができよう。この像は、像高89cm、サクラ材の一木作り。三面六臂の立像である。県指定重要文化財である。とう寺には、寛能法印が37年の歳月をかけて書写した一字三礼の経典紺紙金泥大般若600巻や馬頭観音を納める厨子(江戸末期の作)などが残っている。
現在、千葉県立中央博物館大多喜城分館に収蔵されています。博物館で展示された際にご覧いただけます。
ガス記念館
 平成25年4月1日に天然ガス記念館がオープンいたしました。館内には8つのブースがもうけられ、大多喜における天然ガス発見のエピソードの地、天然ガスやヨードに関する基礎知識、天然ガスがお客様に届くまでの紹介、最新のガス機器の実機展示など、パネル、映像上映、ジオラマ等を使ってわかりやすく解説しています。記念館お前には3本のガス燈が午後8時から10時までの間点燈いたします。会館時間9時から17時 、ガス点燈時間(午後8時から10時) 休館日 12月29日~1月3日


天然ガス井戸発祥の地
 明治24年(1891)大多喜の上原で、醤油製造業を営んでいた大田卯八郎は、裏の畑に数十日かけて井戸を掘った。ところが、ブクブクと粟を含んだ茶褐色の水がでてくるばかり、「これでは醤油は作れない、場所を変えよう。」というわけで、反対の場所に掘ってみたが、相変わらず茶褐色の水がでる状態だった。悲観した卯八郎は、腰から煙草入れを取り出して、キセルで一服考えこんでいたが、何気なくすいがらを井戸の中に捨てた。とたんに井戸の水が紫色を交えた赤い炎を上げながら、ゆらゆらと燃えだした。これが大多喜での天然ガス発見とされ、「上総の燃える水」として有名になった。この井戸にブリキ缶をかぶせ、それに穴をあけ、竹の官でガスを引いて炊事に利用した。このころ茂原や長生地区でも天然ガスが湧きだしたと言われ、この語実用化したために、ガス井戸が掘られ、家庭用に工業用に広く使われれに至った。
大多喜水道
 水源を今の大多喜町伊藤の山麓、神坊の瀧に求め、城山の九十九谷の山腹をうかがって、大多喜城二の丸に引き、それを城下へと引いた。その距離は5.7km、3分の2はトンネルでその数は8個所にも及ぶ。二の丸の高台からは、竹の節を抜いて、その継ぎ目は24cm四方の正四角形の木枡に穴をくりぬいて接続した。昭和29年に新水道が出来るまでの80余年の間、著民の恵みの水を供給していた。この水道は大多喜城主大河内正質が、小高半左衛門にはかり、、測量は三上七五郎があたった。明治3年(1870)5月に完成している。


 ユネスコアジア太平洋遺産
   2013年9月3日ユネスコアジア太平洋遺産賞を受賞 2010年優秀賞を受賞した横浜市のアカレンガ倉庫に続き2番目の受賞
庁舎の概要
所在地 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜93番地
構造規模 鉄筋コンクリート造 地下1階 地上1階 陸屋根
        建築面積 1037.79㎡   延べ面積 1224.31㎡
建築年度  昭和34年1月   設計者 今井兼次  施工 大成建設㈱
平成24年3月 耐震改修工事完了

 房総中央鉄道資料館

  昭和初期から運行した国鉄木原線や外房線などの行き先方向板等約1,000点が常設展示、渓谷から都市までの風景をジオラマで再現し。鉄道模型が走る。模型を持込めば走らせることもできます。

 開館日 土曜、日曜日 祝日  開館時間 10時~15時30分
 入館料 大人 200円  小・中学生 100円

 大多喜駅から徒歩 2分

       養老渓谷・会所麻綿原周辺   見どころマップ

葛藤温泉郷  昔から掘抜き井戸から地下水が噴出していました。大正元年(1912)葛藤四倉沖太郎氏の宅地内の掘抜き井戸(深さ126メートル)から天然ガスが噴出しました。その後、近くの井戸からも天然ガスが噴出するようになり、燈火用や燃料として使用するようになった。大正3年(1914)野口三次郎氏所有の掘抜き井戸からラジウムを含んだ鉱泉が噴出しました。そこで、天然ガスとラジウム鉱泉を利用して鉱泉温泉旅館が昭和の初めころにできました。戦後鉱泉旅館第一号として養老館が開業し、昭和25年この地域一帯を養老渓谷として脚光を浴び始めました。

小田代城跡 
 里伝によると千葉頼胤以来、千葉氏の家臣の出城であり、天正のはじめ(16世紀の後半)千葉市の家臣藤原右京佐宗高が小田代城主としてここを居城にしました。このころ、安房の里見氏の勢力が強く、千葉氏の勢力を圧していました。宗高の時に里見氏に攻められ完全に里見氏に滅ばされてしまいました。今でも殿原、殿屋敷、陣屋台、馬廻場等の名があり、内堀の跡がはっきりしています。



水月寺
臨済宗妙心寺派の禅寺で、至徳元年(1384)開創、至徳は北朝の年号です。        享保年間(1720ころ)六世臨堂和尚のとき、大多喜城主松平氏の要請により、松平氏の菩提寺である大多喜町田丁円照寺の隠居寺となりました。同時に筒森村(旧老川村)には6ケ村に一カ寺、六カ寺があったのですが、統合して水月寺 一 カ寺として現在に至っています。梵鐘は昭和17年太平洋戦争により供出しました。昭和54年再び鋳造したものです。本尊の如意輪観音菩薩座像は創建当時の作、如意輪とは、常に慈悲の心をもって世間の人々に安ぎと幸福を与える仏様。

粟又の滝 
 養老川の上流奥養老渓谷粟又字高滝にかかる滝のことを粟又の滝といい、高滝とも言われています。高さはおおよそ30メートルあります。滝の近くには旅館や休憩所もあり、遊歩道のあって滝壺まで行けます。滝の周辺は春は新緑、秋には紅葉が美しく、あたりの渓谷とよく調和して養老渓谷第一の景観です。




麻綿原
 麻綿原は正しくは、「まめばら」といい、むかし、この地が麻や綿の産地として朝廷にも上納したことからつけられた名地であると言われています。江戸末期、十返舎一九の「金草鞋」という随筆にも出ています。建長五年(1253)日蓮上人がこの地に初日を拝みながら、初めて題目を唱えたと伝えられ、その後弟子の日向上人が初日山妙法寺を建立しましたが、火災に逢い水利の不便なことから廃寺となりました。文政二年(1818)江戸の人金子利平が筒森の永島勝之助と力を合わせて、この地に十八メートルの四面の大伽藍を再建し、二メートル余りの日蓮上人の立像を安置しましたが管理が悪く立ち腐れになってしまいました。昭和二八年(1953)現住職箕輪日受師が再建をはかり、天拝園と称して境内に数万本のあじさいを植え、現在では南総随一の景勝地となり、町の名称として指定されています
妙嚴寺
 
 永徳2年(1382)真言宗不動尊として開基、往時より郡内最大の修験道場でありましたが、文明9年(1477)日朝上人の導きにより時の住僧善敬は日蓮宗に帰依し日章と改め寺号を妙嚴寺と改称したと伝えられている。天正11年(1583)2月粟立山城主里見義頼が境内4ヘクタールを寄進して、祖師堂を再建したと伝えられている。慶長8年(1603)「キリシタン禁止の御札」など、室町末期から江戸初期の古文書も多く残されています。



タケノコの里
 
 
大多喜の山野を彩る美しく壮大な孟宗竹林はその面積は300ヘクタール、タケノコ生産高は、年産一億数千万円にも達しています。特に川畑、平沢、弓木、田代、伊保田地区では、土質が灰白土を呈する粘土質のため、東京市場で「シロコ」と称され、エグ味のない良質のタケノコを算出しています。古くは、江戸末期かには、農家で筍を生産し、販売された記録が残っています。毎年4月中旬から5月上旬に体験タケノコ掘り観光農園がテレビ放映されにぎわいを呼んでいます。


 大塚山

写真家末吉氏撮影
   標高241.3m、上総中野駅から県道177号線を1kmほどで万葉ロード入口緩やかな坂を上り始めると万葉集の歌が書かれた札が並んでいます。傍らには歌に詠まれた草花が可憐な姿でひっそりと咲き大塚山頂上へと続いています。大塚山のもう一つの見所は富士山を望むことができます。スカイツリーをカメラいおさめた方もいます。(観光協会に富士山の写真を展示しています)
春には斜面一面に山桜、秋には紅葉を堪能すrことができます。
早春には駅からハイキングコースとして多くの方がお越しいただいています。
見どころ

大多喜城・城下周辺  養老渓谷・会所麻綿原高原